持続可能な最少不幸社会に向けて/オルタナティブ経済論序説

*産業は持続不可能
古来から、人は自然の恵みを分け頂くことで、暮らしを成り立たせてきました。その「人と自然との共生」という関係が崩れたのは、産業革命のころからでしょうか。そう。木々を薪として燃やしてしまえば、森林はいずれハゲ山となりますが、当時、地下資源は掘れば掘るほど出てきたのです。以来、私たちは枯渇性のエネルギーを費やして金儲けをすることを、「消費」ではなく「生産」と勘違いし、「産業」を発展させてきました。ただ、地下資源は無尽蔵と思われるくらい存在しているのかも知れませんが、少なくとも、その燃えカスを排出する地球の許容量は、無限ではなかったのです。
chap06-24-industry-01.jpg
>出典:http://cgi2.gamecity.ne.jp/dol/start/manual/chap06-024.htm

*資本主義の終焉
地球環境の許容量に限界があることは、ローマクラブが警告した「成長の限界」のでも指摘されていました。それは経済学でも説明することが可能です。端的にいえば、資本主義社会は外部不経済を無視して内部経済だけを潤してきたがために、そのつけが廻り回って全世界的に首がまわらない状態に陥った。違う見方をすれば、従来はエネルギー資源を”効率的に”利用する製造業で利幅を稼いでいたものが、外部不経済が溜って非効率となったため、介護や福祉、飲食や配送など、労働力をベースにして稼ぐサービス業界に期待が集まっているが、低賃金での人材確保には限界があるため、人件費高騰と人手不足が同時に起きている。それが今起きている「資本主義の終焉」であり、「オールサムからゼロサムへのパラダイムシフト」に他なりません。その構図が頭に描ければ、「誰かが儲かれば、誰かが貧する」格差の拡大は、自明の理だと判るはずです。 gaibufukeizai.bmp
>出典:http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10013330140.html

*ゼロサム社会の現実
ご存知の方はご存知でしょうが、アフガニスタンの混乱もシリアの内戦も、元を質せば地球温暖化による干ばつが発端になっています。さらにはイスラムの過激思想に染まったホームグローンによるテロも、それに呼応した移民排斥運動の欧米での拡がりも、経済成長によるトリクルダウン(というかベースアップ)が涸れ絶えたことが不満の元凶といえるに違いありません。日本も例外ではなく、アベノミクスの偏向政策で大企業が内部留保を積み上げれば、見せ掛けのGDPが増大を続けても国民には貧困が拡がるばかり。もっといえば、だからこそポピュリズムが流行り、極右が台頭する。それは世界中で起きている現実なのでしょう。

fc2_2014-03-02_10-04-18-694.jpg
>出典:http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/40d3829e8e766b7dc1e85f56c7be48aa

*高等教育の限界
従来の通説では、貧困を解消するのは、教育とされてきました。曰く、高等教育を受ければ一人ひとりの生産性が上がり、生涯所得の増加も期待できるので税収も増え、その好循環が社会発展の礎になると。しかし現実社会を直視すれば一目瞭然なように、今や世の中間管理職はパソコンで代替されており、今の利潤追求システムで必要とされているのは、一部の参謀とその他大勢の兵隊だけです。それを担わされる学生達にさえ、奨学金という学生ローンが蔓延しているようでは、近未来の結末は見えています。持続可能な最少不幸社会を望むなら、自然の恵みを分け頂く原点に立ち返ること、他人や他国から収奪することなく、自分たちで耕し、そこから得られる富の範囲で幸せを紡いでいく。他に楽をする術などないのでしょう。
title_top_h1.gif
>出典:http://shingakunet.com/rnet/column/syougakukin_column/

投稿者 xbheadjp : 09:02

 

市場経済はマルチ商法である/オルタナティブ経済論序説

*持続不可能な市場経済
私達の地球は今、成長の限界という曲がり角に差し掛かっています。特に新興国の需要拡大と気候変動による凶作で、世界的な食糧需給は崩壊寸前といっても過言ではありません。考え直せば、市場経済とは消費という麻薬を広めるマルチ商法でした。もちろんそれが、今までの社会を物質的に豊かにしてきたことは事実です。しかしそのシステムは、先を競って発展してきた国々や、土地を手放して都会に群れ棲む都市生活者にしか恩恵を与えません。幸福を夢見る末端の新規参入者から収奪して、先行者がリベートを総取りする。その構造は、まさに地球環境を蝕むマルチ商法そのものであり、そんな取引に限界があることは、自明の理でしょう。
multi01.bmp

*経済成長至上主義の歪
マルチ商法が抱える最大の歪は、そこで売買される商材そのものがもたらす便益やそれから生じる幸福感より、取引での「リベート」、それも上納システムによる不平等な分配が重視され、その拡大が目的化されてしまうことです。取り立てて必要ではないものを大量に造って売りさばく。それがどう使われ、捨てられるかなどお構いなしに、買わせることで報酬が得られる。まさに今、多くのサラリーマンが仕事で得られる満足感よりも給料に縛られている。手掛けた商品やサービスが末永く愛用されるより、次々と消費させた方が、業績があがる。その延長が、生活者一人ひとりの暮らし向きや幸福度より、国としてのGDP拡大を最優先する、「景気回復」政策に他なりません。
multi02.bmp

*途上国を虐げる米中の覇権争い
市場経済というマルチ商法は、貿易自由化という大義名分に従って国境を超え、グローバル化の一途を辿っています。戦後、マーケットを牛耳ってきたのは他でもないアメリカでした。しかし何度かの経済危機を経ているうち、急激に勢いづいてきた中国がその秩序を覆そうと、着実に「中華思想」を現実化させつつあります。にわかに注目を集めているアジアインフラ投資銀行(AIIB)は、その端緒に違いないでしょう。資金不足に悩むアジア諸国に対して、立ち遅れたインフラ整備を支援するという提案は、まさにマルチ商法の草刈り場を、国内からアジアへ拡げる戦略そのものです。

multi05.jpg

迫られる究極の選択
こうした情勢を踏まえると、TPPの異なる側面が透けて見えます。それは日本を含めた加盟国に市場開放を迫る不平等条約であると同時に、覇権を握ろうとする中国の封じ込め政策でもあるのです。誤解を恐れつつ端的に言えば、日本にとってそれは、すべてを金で支配する資本主義陣営に留まるか、すべてを裏金で支配する一党独裁陣営に寝返るかの、究極の選択なのでしょう。多くの日本人は中立でいたいと願うのでしょうが、そんな選択肢はあり得ません。なぜなら、食糧自給率40%足らず、エネルギー自給率に至っては4%に過ぎない日本に、自立などあり得ないから。資源が乏しく国土も狭いこの国は、元手もないくせに借金を繰り返して、このマルチ商法にすべてをつぎ込んでいるもので、いまさら足抜けなどできないのです。
multi03.bmp

*原動力は消費行動
マルチ商法社会は、特に快適便利な都会での生活は、何処かの誰かの犠牲でしか成り立ちません。農家の高齢化も地方の過疎化も、さらには原発の再稼働や米軍の基地問題さえ、その元凶はマルチ商法の本質であるピラミッド型の収奪構造にあるのです。なもので、うわべだけの抗議集会や反対運動では、諸問題を変えることはできないでしょう。つまりは、消費活動を続けている限り、社会の末端を虐げるマルチ商法に加担していることになる。なぜなら、そこから集められたリベートは、原子力発電の推進を画策する輩や、新安保法制に基づいた軍事力強化に余念のない勢力に、体よく巻き上げられているからです。
multi04.bmp

*幸福を追求する権利
そもそも、この国を殖産興業、富国強兵に向かわせているのは、経済界や政治家なのでしょうか。着心地や必要性を超えて、見せびらかし、着飾るために買い替えを促すファッションに興じて優越感を充たすばかりか、グルメやレジャーまでもが、癒しや安らぎを超えて、見栄と自慢の種として機能している。もともと資産がない日本で、そんな放蕩生活を続けるには、放射能や遺伝子組み換えなどの危険も顧みず経済成長を成し遂げ、集団的自衛権を根拠に軍備を防衛力から攻撃力にすり替えてでも、日本を「強い国」として取戻す必要がある。国民に今の生活水準を維持させる、つまりは「幸福追求の権利が根底から覆される危機」を招かないためには、市場経済というマルチ商法で、他国からリベートを巻き上げ続けられる権益を死守する必要があるのです。
multi05.bmp

*唯一の打開策は脱消費
ここまで深堀りすれば、市場経済というマルチ商法から逃れる術が見えてきます。巷では、「地球のため」「子どもたちのため」なんてコピーがいまだに横行していますが、エコやロハス、ソーシャルやエシカルなんて緩い言葉で優良企業を装い、更なる消費に走らせる「CSR」という名のマーケティングでさえ、残念ながら弱者を挫き強者を助ける経済政策、軍拡戦略に加担させる「悪魔のささやき」でしかありません。そう、リベートを収奪する立場からも収奪される立場からも、そして「成長の限界」という壁からも逃れるおそらく唯一無二の方法は、その取引から手を引く。つまりは、「消費は美徳」云々という呪縛によるマインドコントロールから目覚めて、市場経済に依存しない衣食住を心掛けること。言い換えるなら、自給をベースにした暮らしや地域をもう一度組み立て直すことしかないでしょう。
multi07.bmp


投稿者 xbheadjp : 16:02

 

パラダイムシフトを超える道/オルタナティブ経済論序説

*富は草木に宿る
経済成長の過程を振り返ると、人類は常に富を創造し、発展してきたかのように感じられます。しかしエネルギーという視点で因果関係を紐解けば、富は植物が産み出しているのであって、すべての動物はそれを消費しているだけという事実に気付かされるでしょう。進歩の歴史も例外ではありません。例えば、遠い昔のご先祖様は、農耕を覚え、備蓄を心掛けるようになって、安住を手に入れました。例えば、大航海時代には列強が競い合い、新大陸の開拓と称してはかの地の植物資源を刈り荒らし、原住民たちの持続可能な生活を踏みにじって、栄華に酔いました。そして産業革命以降は、長い年月を掛けて化石化した植物資源を貪り、発展の源として浪費し続け、またたく間に使い尽くそうとしています。つまりは、富は植物の繁殖力によって「生産」されるものであり、我々の営みは一部の例外を除いて、植物に由来する資源の「消費」でしかない。だから人類が植物の余剰繁殖力を超えて利益を得ようとすれば、それはすなわち、持続不可能な破綻へ至る道であって、いずれ自分の首を絞める自殺行為に他ならないのです。
w1ha5.jpg
>出典:http://www2.edu.ipa.go.jp/gz2/w1rin1/w1h/w1ha/IPA-rin400.htm

*成長の限界というパラダイムシフト
人の起源とされるアダムとイヴが、絶海の孤島に放たれたつがいのヤギだったとします。植物が生い茂り天敵のいない島は、草食動物にとってまさに楽園でした。食べたい時に草を食み、寝たい時に眠る。狼に襲われる危険もないので子宝にも恵まれ、やがてその島は自生ヤギのサンクチュアリになります。それが植物の余剰繁殖力の範囲であれば、谷間に隠れていた餌場を見つけて草木の若芽を頬張ることは至福であり、季節の度に新たな命を授かって一族郎党が増えることは、慶事と悦べたに違いありません。しかし、その増殖が植物の過剰繁殖力を超えると、状況は一変します。草原の緑が絶える冬には、木の皮や草の根を食べて飢えを凌ぐでしょう。草木が萌えるはずの春には、わずかに芽吹いた新芽を食べつくして、実り豊かな大地を砂漠に変えるでしょう。そのとき、飽食は愚行であり、子沢山は飢餓に直結します。そう、その現実こそが「成長の限界」であり、いま我々が直面している「パラダイムシフト」そのものなのです。
wwf2009report.png
>出典:http://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/10290.html

*利益追求という環境破壊活動
孤島のヤギが示すように「パラダイムシフト」の境では、価値観を180度逆転させない限り、サバイバルできません。なのに現代人は、従来のマインドセットにしがみつき、古くなったOSのまま、それでも「利益」を求めて経済活動を続けています。植物の余剰繁殖力を超えてなおも富を得るには、環境から削り取るか、未来にツケを廻すか、弱者に負担を負わせるか、しかないのに、です。特に地下資源に乏しい日本では、削り取れる環境も少なく、未来にツケを廻すハズの原発も自曝の憂き目に合って、それでも過剰な利益を得ようとするなら、残された手段は、弱者に負担を負わせるしかないのに、です。世間では社会起業だのCSVだのといった「志」が持て囃されていますが、それらの努力も遅かれ早かれ、より貪欲な資本に絡め取られて干上がるのが運の尽き。エコロジカルフットポイントで考えて、1.0を大きく上回る環境破壊活動を続けていながら、市場経済で更なる「利益」を求める限り、同じ穴の狢としか評価できないのが現実でしょう。
yagi440.JPG
>出典:http://www.wwf.or.jp/activities/lib/lpr/WWF_EFJ_2009j.pdf

*アベノミクスの本質
ここまで書き連ねてみて、世界でも飛びぬけた財政赤字を抱えているのに、税制も社会保険も年金制度も破綻が見えているのに、日本の国債や通貨価値がなぜ暴落しないのか、グローバルなマーケットの評価が透けて見えてきました。輸入資源の高騰で加工貿易立国というビジネスモデルが崩壊していても、東日本大震災と東電の原発事故で大打撃を受けても、我が国の国際的評価が維持できているのは、他でもなく増税余地があるから、つまりは「弱者に負担を負わせる余地があるから」に違いありません。そう考えたとき、経済成長を謳う現政権の政策、アベノミクスの次の一手と言われる第3の矢の本質が理解できます。ひとことで表すならば、それは「オキュパイ1%」。99%の弱者に更なる負担を負わせる格差拡大政策と他国からの脅威に乗じた批判分子の封じ込めで、より強い国として「日本を取り戻す」。困ったことに、この「弱者負担拡大路線」は日本のみならず二大強国である米中の趨勢であり、世界の現状は、「成長の限界」という壁に向かって突進するチキンレースの最終段階に他ならないのです。
0128sannbonnnoya_09.jpg
>出典:https://www.komei.or.jp/news/detail/20130128_10181

*パラダイムシフトを超えて
多くの野生動物は今まで飼い慣らされてきたヤギと違って、生存環境の中で縄張りを保つことで増殖を抑え、自然淘汰の摂理に従って種を保ちます。パラダイムシフトに直面している我々が持続可能な循環型社会を望むならば、それに見習うしかないのかもしれません。すなわち家族で最低限食べていける農地を確保し、自ら耕して自活する。豊作の時はお裾分けを振る舞い、凶作の際は施しを乞う。成長し続けなければ崩壊する市場経済に頼らなくても、たとえば河川に従って流域経済圏を確立すれば、そこそこ豊かな食生活も保てるでしょう。古き良き日本の伝統文化を掘り起こせば、そこには祈りがあり、祭りがあり、平穏がある。多くを求めなければ、そこではきっと「暮らす幸せ」が感じられるはずです。草木が宿す恵みを分け頂く範囲で成長し、森羅万象を神と讃えて、そして花鳥風月を愛でる。サステナブルでレジリアンスな社会を望むなら、政治やメディアを責めるより“自耕自活”を目標に、消費社会からフェードアウトする具体策を試みましょう。
13211936611.gif
>出典:http://iwate-ginga.or.jp/note.php?p=log&lid=257243

投稿者 xbheadjp : 16:32

 

エコリージョン単位で始める地方再生/オルタナティブ経済序説

第1次産業の制約
マズローが唱える欲求段階説に欠落があるのか、或いはいくつかの欲求が組み合わされ、それに有史以前からの経験が学習効果として加わって、脳の無意識界に埋め込まれたのかはここでは問いませんが、多くの人には、恐らく安全欲求と社会的欲求の狭間くらいに、「成果が不安定な肉体労働を忌避する思考回路」があるように思われます。その観点から考えると、農業や漁業など自然の恵みを分け頂く第1次産業と称される労働には、天候や環境変化の影響によって、「成果」を安定化させることが難しいという制約がついて廻ります。
131026step5.JPG

人口が都市に集中する構造的理由
一方で都会は、市場原理に基づいて絶え間なく労働生産性を高めてきた、いわゆる「高次産業」で膨張を続けてきました。言い換えれば、都市は「成果が不安定な肉体労働を回避する装置」と位置付けることができます。考えてみれば、その機能こそが都市が地方出身者を引き寄せる魔力の源泉なのでしょう。なので、飢餓欲求や安全欲求に満たされた若者は、高校を卒業すると、社会的繋がりを振り切ってでも都会での生活を選択してきたのです。その積み重ねが都市に人口を集中させ、地方の農山漁村を限界集落にまで貶めている元凶に違いありません。
nousyoukourenkei.jpg

地方が衰退する構造的理由
更には地方に留まっている人々も「成果が不安定な肉体労働」がベースにある日々の暮らしを、曲りなりにも安定化させるため、市場経済の枠組みの中で、都市へ農山漁産品を供給することで現金収入を得てきました。ただしそれは、「成果が不安定な肉体労働を忌避する」生産地どうしの価格競争を生み、さらには経済グローバル化の波にも晒されて、疲弊が疲弊を産み衰退が衰退を招いて、更に都市を優位な地位へ高める結果となっています。もちろん農商工連携や6次産業化の試みが功を奏して、活気づく地域もありますが、それらは原理的に特異例でしかあり得ず、多くの地方が同じ動きを活性化させれば、そこに新たな競争原理が働いて、気がつけば、地方の資源が都市に吸い上げられる構造にうまく組み込まれているだけ、という状況に陥るのが関の山でしょう。
jinkoumitsudo.png

エコリージョンの可能性
そうした観点をもとにして、21世紀に相応しいオルタナティブなフロンティア・デザインを構築するとするなら、その鍵は大都会を頂点とする市場経済には距離を置いて、地域人どうし、或いは地域どうしの連帯によってレジリアンスな循環の環を強化することにあるように思います。つまりは、「成果が不安定な肉体労働を忌避する生産地」が互いに支え合うことで、お金に頼らなくても豊かな生活環境が整えられるのではないか、と。もっと言えば例えば川の流域、エコリージョンで農山漁村が共同し都会にはない魅力が創発できれば、中央に媚びることがない、魅力的な辺境を創造できるようにも思います。
moriha.jpg

投稿者 xbheadjp : 17:45

 

経済成長しかない日本の末路/オルタナティブ経済論序説

経済成長は負債の成長
経済成長をGDP(国内総生産)の伸びとして考えると、それは国の生産力アップを示す数字であり、資本力や技術力、そして労働力をも総結集させた発展の証と見えます。しかし裏を探れば、需要を当て込んだ借金の積み増しに対するリスクテイクの賜物と捉えることも可能です。早い話が、個々人レベルで去年より多くの借金を背負っても、返済して余りある効果が見込めれば更なる借財を背負うだろうし、逆に返済の目処が立たない負債は歩の悪い博打と同じで、踏みとどまるのが定石でしょう。つまりGNPとは、国全体として借りまくった資金と当て込んでいた欲望との合致度合いでもあるのです。言い換えれば、国レベルの総計として、前年よりまして欲望が喚起され、去年を上回る借入が思惑通りに回収できたとき、それを「経済成長した」ということに他なりません。
loans440x330.png

高度成長の源は安い石油
日本は戦後、アメリカの傘のもとで安い原油を思う存分調達できる立場にありました。ご存知のとおり、石油は動力や発電の燃料となるだけではなく、多種多様な化学製品の原材料としても重宝されます。特に太平洋戦争で米国の物量に圧倒された当時の日本人にとっては、まさに欲望の起爆剤だったのでしょう。その象徴が、三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)であり、新三種の神器(カラーテレビ、クーラー、自動車)だったともいえます。大雑把にいえば、安い石油が容易に手に入った高度経済成長期には、それが錬金術の源となり、国民の生活向上意欲と産業界の投資意欲、国の財政出動意欲が相乗効果をもたらして、いわゆる資本主義国のショーケース的な成長を遂げたという解釈もおかしくはありません。

もっといえばバブル崩壊以降、失われた20年とも揶揄される時代に財政赤字が膨らみ、年金制度が崩壊し、さらには非正規雇用が増加して、結婚すら難しい状況に陥っている原因は、去年より多くの借金を抱え込むに値する、欲望をくすぐるに足る石油が高騰したことに、そして石油に替わる錬金術の源が、他に見当たらないことにありそうです。
4714.gif

代替資源は原子力?
そうした経緯を踏まえて考えると、今の日本が抱える問題の本質は原発でもTPPでもなく、石油という欲望の起爆剤が効力を失ったにも係わらず、それを頼りに増殖してきた1億2千万あまりの人口を今も抱えていることにあります。ひところは自然エネルギーに対する期待が膨らみましたが、グリーン成長戦略云々は、残念ながら空騒ぎに過ぎませんでした。単純に考えても、小規模分散型の発電網を全国的に展開するにはインフラの再構築が必須であり、その整備を進めるには、今の使用量を遥かに超える化石燃料が必要というジレンマが待ち構えているのです。

一方でシェールガス革命に期待する向きもありますが、たとえその可採埋蔵量が発表どおりで無限に近いものだとしても、液化などによる運搬コストが重く伸しかかる日本の産業界に、勝ち目はありません。しかもその供給を安定的なものにするためには、TPPをはじめとする自由貿易とは名ばかりの不平等条約を呑み続けるしかないのでしょう。トドの詰まり、日本が国として経済成長という見果てぬ夢を追い、目先に迫る破綻を近視眼的に回避するためには、使用済み核燃料を莫大な廃棄費用が圧し掛かる「核のゴミ」としてではなく、「再利用可能な核燃料」として資産計上する究極の粉飾決算によってのみ成り立つ、「原発の発電コストは安い」という国策的詐欺に加担し、便乗するしかないのです。
sozai_33_02.jpg

持続不可能な日本の末路は
再整理すれば、今の日本を覆う漠とした閉塞感は、政治家がアメリカの言いなりになっているからでも、済界が富を独占しようとしているからでもなく、安い石油を湯水のように使えた時代に、食料や資源を自国で賄える限界をはるかに超えるまで、人口を増殖させてしまった日本国民自体に元凶があります。我々1億2千万余の日本人は、既に持続不可能な状態に陥っているのであり、この国を維持するためには他国の経済成長に乗じて利ザヤを貪る他なく、極論すれば、日本の経済成長は世界を持続不可能に貶めることでしか成し得ないのです。

しかも、地球を蝕んでいるのは日本だけではありません。世界はいま、経済の国際化が加速するなかで、法令順守の網の目を潜りながらも、弱者から環境から、そして将来から富をかき集めることで利益を膨らませ続けているグローバル企業同士が、それぞれ更なる経済成長を渇望している各国政府を巻き込んで、過当競争を繰り広げているのです。資源も少ない、領土も狭い日本がまともにそこへ参戦したら、どういう社会になるかは火を見るよりも明らかでしょう。残る経営資源は有り余る人口、それだけなのですから。
g-1-1.jpg

投稿者 xbheadjp : 10:20

 

島国農耕民族思考のすすめ/オルタナティブ経済論序説

1.経済成長を裏打ちする錬金のタネ
大航海時代には、命を賭けて大海原を渡り未開の大陸との交易を成し遂げれば、巨万の富が得られるという錬金のタネがありました。産業革命以降は、私財を投じて石油を掘り当てれば、1単位のエネルギー投入で100倍のエネルギー源が得られるという錬金のタネが成り立ちました。経済成長とは、裏を返せば市場での総借金額の膨張であり、つまりはそれぞれのプレーヤーが、前年より多くの借金をしてでもそれを梃子に、より多くの富を得られるだけの錬金のタネが裏打ちとしてなければ、それはいずれ破綻するバブルでしかありません。もちろん政府が財政出動で市場を活気づけようが、日銀が金融緩和で景気を刺激しようが、それは遅かれ早かれ弾ける泡が膨らむだけの悪あがきです。

130328shimaguni1.jpg

2.自然エネルギーは練金のタネたるか
植民地を支配した宗主国は、弱者からの収奪を錬金のタネとして領土の覇権を競いました。石油を支配した先進国は、自然からの収奪をタネにして経済の覇権を競い合いました。そして目先の安い電気を確保するために核廃棄物処理を未来永劫に亘って委ねる原子力発電は、将来からの収奪をタネにする錬金術に他なりません。翻って1単位のエネルギー投入で数倍のエネルギーしか獲得できそうにない自然エネルギー開発は、実際、どれだけ優れた練金のタネなのでしょうか。例えば低価格化が進んだ太陽光パネルは、大気汚染の火種にもなっているはずな中国の劣悪な石炭火力によって製造されているだろうに。例えば、エネルギー源自体は限りなくコストゼロであっても、それを効率よく活用するインフラを構築するためには、とてつもない化石エネルギーが必要になるであろうに、です。

130328shimaguni2.jpg

3.島国農耕民族と大陸狩猟民族の違い
思い起こせば、島国として限られた土地に縛られてきた我々の祖先は、水を導き肥やしを運び入れることで、先祖伝来の田畑から自然の恵みを分け頂くことに喜びを見い出し、森羅万象を八百万の神として崇めてきました。里山を共同で管理しその資源を活用する一方で、奥山との境に神社を建て、その先を鎮守の森として護ってきた風習や伝統文化にも、集落を維持する智慧が窺えます。一方で現代文明の源と言える大陸生まれの欧米人は、ヨーロッパを覆っていた森をハゲ山に変え、海の向こうの新大陸をフロンティアとして搾取し、それで自らを神の子と呼んで憚りません。貧困撲滅を旗印に発展途上国の辺境にまで市場経済を持ち込んで開発を促し、資本の力で木を支配し、水を支配し、種を支配し、挙句の果てにはグリーングロースを口実に自然エネルギーまで支配しようとする開拓魂は、留まるところがないようです。

130328shimaguni3.jpg

4.富を外に求める幸福観の限界
日本経済が高度成長で沸きかえっていた頃、子どもたちが21世紀に描いた希望は、車が空を飛び海底や宇宙に都市を築く夢でした。しかし今、私たちが直面している現実は、1972年にローマクラブが警鐘をならした「成長の限界」そのものです。残念ながら地平の先は、永遠に続く未開の大陸ではなく、前進しつつければ出発点に戻ってしまう球体だったのです。単純に考えれば腑に落ちることですが、限られた領域で富を外に求め続ける大陸狩猟民族的な価値体系は、おのずから破綻するしかありません。逆を返せば、本当に我々が持続可能で平和な社会を望むなら、島国農耕民族思考に立ち返って、自分たちの生態系の中で、自然の恵みを分け頂くことに幸福を見い出すしかないのです。

130328shimaguni4.jpg

投稿者 xbheadjp : 08:42

 

市場経済社会の限界/オルタナティブ経済論序説

1.文明開化の罠
「奥山にはみだりに立ち入らない」「天然のものは必要以上に取らない」。古来から、日本人の多くは生態系の環の中で、自然の恵みを分け頂いて暮らしてきました。藁を編んで縄をない、竹を組んで篭をつくる。創意工夫を重ねて当たり前のように生き、何事もなかったかのように死に逝きました。その営みは里山と田畑と人里の循環そのものだったはずです。そんな日常に幸せを外に求める煩悩を芽生えさせたのは、市場経済という「文明」でしょうか。発端は明治維新か、戦後の復興か、いつしか庶民までもが「お金で買う」という行為によって、自らが属する生態系の外から富を掻き集め独占することに、何の疑問も持たなくなっていました。根拠は、「対価を払ったのだから」。その富が本来は誰のものでもない、自然が育んだものであっても、出元の生態系にとっては、必要なものであっても、です。

130305eco-system5.PNG

2.無意識という罪
人々は農業を、林業を、漁業を「生産」と呼びます。その富は人が生み出したものではない、太陽と土と水が育んだものであっても、です。人々は鉱業を、また工業を、そして商業を「産業」と呼びます。その産物は人が編み出したものではない、化石エネルギーの消費によって産出されたものであっても、です。更に人々は、そうした「生産行為」で貯め込んだお金を「財産」と呼びます。それらが他の生態系から外し取ったものであっても、です。そんな錬金術がいつまでも続く訳はないと感づいた人達が、オルタナティブな道を模索しはじめました。曰く、環境ビジネスで経済成長を実現させる「グリーングロース」。曰く、ビジネスの手法で社会的課題を解決する「社会起業」。たしかに耳触りは良い言葉ですが、それで本当に持続可能な循環型社会にシフトできるのでしょうか。CSRで希少生物の保護を!って、そのお金はどこから来たのか。BOPビジネスで貧困層の経済的自立を!って、そのお金はどこに行くのか。とどのつまり、生態系の外に富を求める限り、問題解決をお金で図ろうとする限り、持続可能な循環型社会なんて、お題目にしかなりません。

130305eco-system3.JPG

3.パラダイムシフトの必然
人々は昔、大地は平らなものと思い込んでいました。海の向こうにはフロンティアが無限に拡がっていると思い込んでいました。確かにそうであれば、生態系の外に富を求めることは、永遠に可能です。生産にも蓄財にも、そして市場経済の発展にも、限界はないでしょう。しかし地球は丸かった。そして私たちは、地球が丸いことを知ってしまった。であれば、自らが属する生態系の外に富を求めることに限界があることも、たやすく理解できるに違いありません。もちろん経済発展を良しとする立場から見れば、ビジネスの手法で貧困を撲滅するのは善なのでしょう。本当に経済成長と環境保全が両立するなら、そんなに好ましいことはないでしょう。しかし地球は丸いのです。生態系の外に富を求め、お金に際限ない価値を与える限り、壁に直面するのは、自明の理です。採掘するだけで溢れ出る安い石油の時代は終わりました。短絡的な発展信仰による汚染が、日々の生活さえ危うくすることを思い知らされました。もちろんそれは世界的規模で優劣を争う市場経済の歪であり、目先の利潤追求が至上命題である資本主義社会の汚点に他なりません。歪であり汚点に他なりませんが、諸悪の根源は国というより、企業というより、自らが属する生態系の外に富を求め、お金に際限ない価値を与えている私たち自身なのです。本当に持続可能な循環型社会を望むなら、生態系との共存を図るなら、なによりその元凶を断つことが必要でしょう。

130305eco-system4.JPG

4.唯一の打開策
“Be the change !” と説いたガンジーの教えに倣うなら、「社会を変えるのではなく、自分を変える」しかありません。つまりは持続可能な循環型社会を望むのなら、お金の価値に際限を設け、自らが属する生態系の中に豊さや幸せを求めるしかないのでしょう。思い直せば「豊さは得るものではなく感じるもの。幸せは買うものではなく創るもの。」そう、成長の限界という壁への激突を避ける唯一の打開策は、外からの資源に頼らない循環型有機農をベースとした自給共生の実践。たとえ完璧に到達できなくても、そこに「くらす幸せ」を見い出して少しずつでも近づくこと。マグマを汲み出すなどして、永遠のエネルギーを手に入れない限り、宇宙に脱出するなりして、無限の空間を我がものにしない限り、私たちは「限界」の範囲内で幸せを紡ぐしかない。そういう思いに至った訳です。

130305eco-system1.JPG

投稿者 xbheadjp : 08:02

 

成長の限界を越えて/オルタナティブ経済論序説

1.経済成長は、消費の喚起で幸福感を増幅させる
市場経済を「人々の欲望を喚起して消費を促し、資金をより回転させることで幸福感を増幅させる枠組み」と再定義してみましょう。資本主義社会は実質的に、融資や投資、株式など借金で廻っているので、読み替えれば「借金をし、その利子を返済しつつも更なる幸福感が得られると、それを実践する人々が増えた時、正確に言えばその借入額が前年を上回った時、世間ではそれを経済成長と看做している」訳です。なので、平たくいえば「毎度の借金が幸福感を増す原資となる」その不等式が成り立たないと経済成長は見込めません。円安になれば、インフレになれば、とは次元が違う話なのでしょう。

money_as_debt.PNG
*出典:http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=iqlxMp3dR7Q&hl=ja

2.オールサムからゼロサムへのパラダイムシフト
大航海時代、大海原を渡った先に無限のフロンティアが臨めたオールサムな状況では、市場経済はまさに「幸福感を増幅する枠組み」でした。株で資金を集め、そのバックアップで冒険を成功させた英雄は、航海に携わった猛者たちは、そして欲に駆られた投資家は、多かれ少なかれ富の分配に与かることができたのでしょう。あるいは植民地支配であれ、緑の革命であれ、そのステークホルダーは、それなりに生産性向上の恩恵を受けていたとも想像できます。しかし「消費は美徳」と奨励された歴史は一変しました。陸地が開発し尽くされ、海や空までもが汚染に晒されて、地球は毎年、その環境容量の144%ものダメージを受けています。日本に至っては許容範囲の2.3倍ともいわれる広さで地球を踏み潰している、その現状においては、度を超えた発展は破壊であり、誰かの幸福は誰かの不幸であって、時代はとっくにゼロサム社会にパラダイムシフトしているのです。例えれば「日本人は普通に消費生活をしているだけで、世界の国々の、そして将来世代の権利を侵害している加担者だ」といえなくもありません。

eco-foot2012data.PNG
*出典:http://www.wwf.or.jp/activities/lib/lpr/WWF_EFJ_2012j.pdf

3.グリーン・グロースという名のグリーン・ウォッシュ
今は昔、日本でも地球に対する環境負荷が1.0に満たなかった時代であれば、産業振興や消費生活についてエコを謳うグリーン・グロースは、もちろん推奨されるべきだったと思います。しかし、すでに限界を大幅に超えている破綻途上国にいながら、何をもって経済成長が「グリーン」といえるのでしょうか?単純に考えて、例え我々のエコフットを2.3から1.8へ激変させる製品が開発されたとしても、過剰消費のそしりは免れえず、それが地球に優しいからどんどん買い替えましょうというビジネスが、社会正義といえるのでしょうか?燃費が大幅に向上した減税対象車だからといって、広告宣伝に多額の経費を掛け、乗り換えを促して、そのオーナーに勘違いな優越感を与えることが、どれだけ企業の社会的責任にかなった経営と評価されるでしょうか。今となっては環境負荷が1.0を下回るレベルでない限り、後ろめたくて「地球に優しい」なんていえないし、まして消費を煽らなければ成長できない市場経済が、その宿命から脱皮することなしに、エコとビジネスの両立をアピールすることはまさに欺瞞でしょう。もっといえば、エコやロハスを掲げて必要以上の購買を促す広告宣伝など、それだけで似非な「グリーン」と感じてしまうのは自分だけでしょうか。

img2.gif
*出典:http://www.suzuki.co.jp/car/ecocar_info/

4.成長の限界を超えて
1の投資で100倍の便益が得られる安い石油の時代は、とうに終わっています。環境負荷へのリボ払いを100万年後の未来まで分割させるだけの原子力発電も、化けの皮が剥がれてしまいました。あらたな経済成長のエンジンとして自然エネルギーに期待を寄せる向きもありますが、その投資対効果はせいぜい1桁台でしょう。もはや借金をしたところで、その元利返済以上の物的満足を抱かせてくれる錬金術など見当たりません。都市生活者でさえ、大量生産大量消費の先には、大量廃棄だけしか残らないことを体感している。地域住民でさえ、公共投資の後には、莫大な維持費負担と赤字国債しか残らないことを痛感している。もちろん窮すれば、政治に景気対策を迫るのは世の習いです。しかしそんな経済状況だからこそ、抜本的な立て直し策は、需要の先食いでしかない。そんな政治情勢だからこそ、あちらが立ったらこちらが立たずで、どの政権も長続きしない。あいえ、もうみんな薄々は気づいているのでしょう。成長には限界があることを。発展の先に本当の幸福などないことを。なので今、模索すべきはバブルを膨らませるだけのグリーン・グロースではなく、パラダイムシフトへの対応策となるソフトランディングのシナリオです。経済の枠組みも市場の枠組みも、その根幹となる価値体系から積み上げ直さなければ、持続可能な循環型社会など、見出せることはないでしょう。

paradigm-shift.PNG

投稿者 xbheadjp : 22:27

 

富は植物に宿る/オルタナティブ経済論序説

Mujica.jpg

1.唯一絶対の富とは、植物の余剰繁殖資源。

「人はパンのみにて生くる者に非ず」は新約聖書にあるフレーズとのことですが、人はパン(食料)がなければ生きていけません。(生きるためには水や空気も必要であり、現実社会ではその確保さえ危うい事態にも陥っていますが、それはさて置き。)もちろん動物も重要な食料ですが、肉食動物でさえその餌食となる草食動物の糧はもちろん植物なわけで、とどのつまりが皆同じです。一方で、鉱物も価値と看做すことはできますが、それは極限に至れば食べられない、いわば相対的な価値であり、しかもその希少性は、「探す」とか「掘る」とかの労働の賜物であって、その根源を問えば、やはりエネルギー源としての「パン」に辿り着くわけです。さらにいえば「貨幣」といえども、その信頼の根底には食料兌換性が潜んでいるハズで、だからこそひとたびハイパーインフレが国家を襲えば、それは紙クズになるのでしょう。ということで、ここでは多少の例外は考えられるものの、誤解を恐れつつも大胆不敵に、その辺も十把ひと絡げにして「唯一絶対の富とは、植物の余剰繁殖資源(つまりは種や豆、芋類を軸とした光合成の成果物)」といい切ってしまいます。

syokumotsurensa.JPG
>出典:http://www.jibhome.jp/blog_dir/2010/05/post-6.html

2.経済学でいう生産される価値とは、植物余剰繁殖資源の消費による共同幻想。
有史以前から、ジンルイは植物の余剰繁殖力を頼りに「発展」してきました。よくよく考えてみれば、大航海時代に西欧列強が植民地支配で潤ったのは、未開の大陸が培ってきた、植物を底辺とした食物連鎖による集積の恩恵でしょう。さらには産業革命の主軸となった蒸気機関の石炭火力も、今の物質文明を根底で支えている石油系のエネルギー源も、元を質せば植物由来に他なりません。従来の経済学では、第2次産業も第3次産業も、その成果物をすべて「付加価値の生産」と看做すのが大原則ですが、地球環境の視点で見れば、その実態は「資源の消費」です。そうです。経済成長としてカウントされる「生産」とは、そのほとんどが、「付加価値」という共同幻想で包んで物欲を煽る「植物余剰繁殖資源の消費活動」に違いないのです。蛇足でいえば、穀物の大量投与で成り立っている畜産業はもちろんのこと、石油で支えられている大規模農業さえも、「植物余剰繁殖資源の消費行為」に他なりません。

img_871d0932e08291187c7362162404352879339.jpg
>出典:http://diamond.jp/articles/-/22320

3.持続可能な発展は、植物の余剰繁殖力を越えては成り立たない。
市場経済の価値観に基づいてそう呼ばれる「先進国」は、こうした「植物余剰繁殖資源の大量消費」を「経済成長」と呼び、「途上国」に先駆けて「発展」を成し遂げてきました。もしかして、地球のキャパシティが無限であれば、「産めよ増やせよ地に充ちよ」と、いわばその表裏一体にある「大量生産大量消費」と、その帰結である「大量廃棄」は、永久不滅な福音なのでしょう。しかし本当に「地に充ちて」しまい、その経済活動の総和が地球環境負荷の1を越えてしまうと、「消費は悪徳であり、増殖は自滅に他ならない。」と、状況が一変してしまします。それこそがまさに、いま我々が直面している「成長の限界」であり「パラダイムシフトの本質」であり、後戻りできるか否かの「ティッピングポイント」に違いありません。まして、世界全体でのエコロジカル・フットプリントが1.4を越え、日本人のそれは2.4とも3.0ともいわれる事態に至ってもなお、「グリーングロース」を語って憚らない従来型思考の指導者に「正義」はあるのでしょうか。いえいえ、将来世代から責任を問われる時代において、悪魔に魂を売らないためには、成長のスピードを「植物の余剰繁殖力」以下に抑制するしかないでしょう。もしそれができないなら、冗談ではなく「先進国」は「破綻途上国」であり、まだその一線を越えていない「発展途上国」は、「持続可能国」と読み替えてしかるべし、です。

paradigm-shift.PNG


4.産業活動において例外的に「生産」と呼べるものがあるとしたら、それは自然農や循環型有機農業
大規模経営による農業が実は石油に依存している産業に他ならず、それが地球環境に多大な影響を与えていることは周知の事実です。その一方で、いうなれば緑の革命以前、日本なら現状の慣行農業が普及する前の伝統的農業や、現代においても大規模生産や輸出入を善しとしない自然農や循環型農業は、外のものを足さずに自然の恵みを分け頂くという意味で、唯一「生産」的産業活動といえるでしょう。もちろん日本での農村生活は今や軽トラックがなければ成り立たないので、あくまで原理的には、です。しかも1億人を越える日本の人口が、この狭い国土において有機農法だけで食べていけるのかといえば、それは無理な話かもしれません。しかし何より、あなたが行動規範の第一優先順位を地球環境保全と考え、基本的人権として全人類は飢餓から免れるべきと思うなら、ジャイアントパンダの保護を叫ぶより、アフリカの貧困撲滅を訴えるより、まずは自分で地球を踏み荒らしているその足跡を持続可能な範囲に収めるべき、つまりは植物の余剰繁殖力の範囲で、自然の恵みを分け頂くことが正義であり至福と感じるべきですよね。あいや、それは義務とか強制とか我慢とかではなく、”Be the change!”を志すなら、少なくともその方向へ向かう努力をすることが自然の成り行きと感じます。ま、一億皆農とまではいわないまでも、そこにこそ持続可能な循環型社会へ回帰できるヒントが見出せるのでは、と模索を試みている次第なわけです。

jikyuken.PNG
>出典:http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3108_1.html

投稿者 xbheadjp : 12:59

 

グリーンエコノミー異説/オルタナティブ経済論序説0

年頭にあたって、今まで頭の中でモヤモヤと漂っていたものをエントリーにまとめてみました。持続可能な生活を考える上で、何がしかの参考にして頂ければ幸いです。

greeneconomy001.PNG

1)太陽の恩恵
今は昔、人類が環境に悪さをしていなかったころは、地球という生態系は、まさに持続可能な循環型社会だった。単純に考えてみれば、その状況において、おおかたのエネルギー源は太陽であることが判る。(地熱や潮力の恩恵も無視はできないものの。)植物が陽の光を浴びて光合成を行い、動物がその恵みを糧とすることで、食物連鎖が成り立つ。もちろんその排泄物や死骸が植物の成長に不可欠であってこその、循環でもある。この単純モデルを頭に描けば、地球環境に根源的な富をもたらしているのは、ほぼ植物であることが理解できるだろう。逆に言えば、黄金も貨幣も、それは人々が勝手に兌換可能な相対的価値を、それらに与えているだけにすぎない。

greeneconomy002.PNG

2)蓄財の起源
古代の人が農耕という生産手段を身につけた時、そこに備蓄という知恵が生まれた。すなわち秋の実りを貯えておけば、冬の飢えを凌ぐことができ、その種を食べ尽くさずに春に播けば、また秋の収穫が期待できる。さらに将来を見越した貯えがあれば、凶作や飢饉の備えともなる。つまりは、自然の循環から溢れる植物の繁殖力の余剰が、地上における豊さの源泉に他ならない。
マズローによれば、人は安全が確保され、衣食が足りて認め合う仲間ができると、尊敬を得たいという欲求に駆られるという。原始社会の長たちも、たぶんその段階で、富を誇示する境遇に至ったのであろう。彼らは希少なもの、光り輝くものに相対的価値を見いだし、弱者から労働力を搾取することで、あるいは立派な墓を建て、あるいは軍備を増強し、或いは城を築いて支配権の拡大を目指した。その権力の根底に食糧の備蓄があったことは、想像に難くない。

greeneconomy003.PNG

3)資本主義成立の内幕
大航海時代に、海の彼方に無限の可能性を秘めた未開の土地が発見され、リスク回避のための利子や株式の制度が整うと、時の権力者たちは資金を調達し、船団を設えて新大陸へ繰り出しては、交易、はまだしも略奪、植民地化、奴隷の売買までをも手掛けて、富の集中を競った。その構図は、列強国の市場だけを切り分けてみれば利益が利益を招くオールサム社会での経済成長にも思えるが、世界規模で押し並べて考えれば、新大陸で植物が育み、原住民が貯えてきた富を、力ずくで収奪しただけと看做すこともできる。

greeneconomy004.PNG

4)高度経済成長のカラクリ
産業革命が普及し、化石燃料が発掘されると、先進国ではGDPが飛躍的に膨張し、一般消費者までもが経済成長の恩恵を受け、快適で便利な生活を当たり前のように享受できるようになった。特に日本では第一次産業従事者が時代遅れのように軽んじられ、第二次産業から第三次産業へと労働力が移行して、大量生産大量消費が持て囃された。それは同時に大量廃棄による環境破壊を招き、気候変動までもを引き起こしてしまった。
しかもその裏を返せば、今までの経済成長は安く手に入った化石エネルギーの浪費で賄われており、それは太古の時代に植物が太陽から得ていた恵みの集積に他ならない。要は近代から現代に掛けての経済成長もまた、富の絶対量を飛躍的に増大させたとは言い難く、地下資源が有限である以上、その成長に限界があるのは、必然としかいいようがない。

greeneconomy005.PNG

5)原子力発電の虚構
そんな状況で、原子力発電が植物由来ではない夢のエネルギーに思えたのは、必ずしも悪意があってのこととは思えない。ピークオイルが現実に迫る中では、尚更といえる。しかしその期待は東日本大震災に伴って発生した福島第1原子力発電所の事故で、脆くも崩れ去った。そもそも原発は、今の浪費経済を支えるために、放射能廃棄物処理のエネルギー負担を未来永劫、後世の子孫に押し付けるだけの、前借りの枠組みではないのか。現世代が一時の快適便利を得るため、汚れた物質を吐き出し続けて良いのか。単純にエネルギー効率から考えても、割に合う行為だとは思えまい。

greeneconomy007.PNG

6)自然エネルギーの限界
一方で、太陽光や風力に期待する向きも多いが、いわゆるグリーンニューディールでどれだけの経済発展が可能であろうか。そもそも再生可能系の発電においてそのエネルギーの投入対効果(EPR)は、自噴する石油採掘が1対100であったとしたら、せいぜい一桁台であろう。その程度の効率で投資を煽っても、やがては萎むバブルを膨らませるのが関の山と思われる。事実、オバマ大統領が唱えた政策は、雇用の確保さえままならないと聞く。つまりはピークオイルが現実に迫る今、欲望が欲望を掻き立て、投資が投資を招く。それだけの富をひねり出す錬金術は、もはや存在しないと悟るべきなのではないか。

greeneconomy009.PNG

7)グリーンエコノミーの原点
以上、もういちど整理すれば、地球上で生産される富はその大部分は植物が担っている余剰繁殖力に依存しており、世界規模での富の蓄積は、絶対的価値観の視点から見れば、その限界を超えることはできない。巨万に及ぶ銀行口座残高も高度に発達した都市機能も資源枯渇、気候変動、人口爆発が招くであろう食料危機には、何の足しにもならないのだ。万物の霊長たる人類といえども、マルサスが見破った罠の枠組みの中で、富を分かち合い、希望を紡ぎ出す以外に、持続可能な循環型社会に軟着陸するシナリオはあり得ない。グリーンエコノミーを考えるうえでの原点は、ある意味「マルサスの罠」にあるといえるに違いない。

greeneconomy008.PNG


投稿者 xbheadjp : 17:00