市場経済社会の限界/オルタナティブ経済論序説��

1.文明開化の罠
「奥山にはみだりに立ち入らない」「天然のものは必要以上に取らない」。古来から、日本人の多くは生態系の環の中で、自然の恵みを分け頂いて暮らしてきました。藁を編んで縄をない、竹を組んで篭をつくる。創意工夫を重ねて当たり前のように生き、何事もなかったかのように死に逝きました。その営みは里山と田畑と人里の循環そのものだったはずです。そんな日常に幸せを外に求める煩悩を芽生えさせたのは、市場経済という「文明」でしょうか。発端は明治維新か、戦後の復興か、いつしか庶民までもが「お金で買う」という行為によって、自らが属する生態系の外から富を掻き集め独占することに、何の疑問も持たなくなっていました。根拠は、「対価を払ったのだから」。その富が本来は誰のものでもない、自然が育んだものであっても、出元の生態系にとっては、必要なものであっても、です。

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2.無意識という罪
人々は農業を、林業を、漁業を「生産」と呼びます。その富は人が生み出したものではない、太陽と土と水が育んだものであっても、です。人々は鉱業を、また工業を、そして商業を「産業」と呼びます。その産物は人が編み出したものではない、化石エネルギーの消費によって産出されたものであっても、です。更に人々は、そうした「生産行為」で貯め込んだお金を「財産」と呼びます。それらが他の生態系から外し取ったものであっても、です。そんな錬金術がいつまでも続く訳はないと感づいた人達が、オルタナティブな道を模索しはじめました。曰く、環境ビジネスで経済成長を実現させる「グリーングロース」。曰く、ビジネスの手法で社会的課題を解決する「社会起業」。たしかに耳触りは良い言葉ですが、それで本当に持続可能な循環型社会にシフトできるのでしょうか。CSRで希少生物の保護を!って、そのお金はどこから来たのか。BOPビジネスで貧困層の経済的自立を!って、そのお金はどこに行くのか。とどのつまり、生態系の外に富を求める限り、問題解決をお金で図ろうとする限り、持続可能な循環型社会なんて、お題目にしかなりません。

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3.パラダイムシフトの必然
人々は昔、大地は平らなものと思い込んでいました。海の向こうにはフロンティアが無限に拡がっていると思い込んでいました。確かにそうであれば、生態系の外に富を求めることは、永遠に可能です。生産にも蓄財にも、そして市場経済の発展にも、限界はないでしょう。しかし地球は丸かった。そして私たちは、地球が丸いことを知ってしまった。であれば、自らが属する生態系の外に富を求めることに限界があることも、たやすく理解できるに違いありません。もちろん経済発展を良しとする立場から見れば、ビジネスの手法で貧困を撲滅するのは善なのでしょう。本当に経済成長と環境保全が両立するなら、そんなに好ましいことはないでしょう。しかし地球は丸いのです。生態系の外に富を求め、お金に際限ない価値を与える限り、壁に直面するのは、自明の理です。採掘するだけで溢れ出る安い石油の時代は終わりました。短絡的な発展信仰による汚染が、日々の生活さえ危うくすることを思い知らされました。もちろんそれは世界的規模で優劣を争う市場経済の歪であり、目先の利潤追求が至上命題である資本主義社会の汚点に他なりません。歪であり汚点に他なりませんが、諸悪の根源は国というより、企業というより、自らが属する生態系の外に富を求め、お金に際限ない価値を与えている私たち自身なのです。本当に持続可能な循環型社会を望むなら、生態系との共存を図るなら、なによりその元凶を断つことが必要でしょう。

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4.唯一の打開策
“Be the change !” と説いたガンジーの教えに倣うなら、「社会を変えるのではなく、自分を変える」しかありません。つまりは持続可能な循環型社会を望むのなら、お金の価値に際限を設け、自らが属する生態系の中に豊さや幸せを求めるしかないのでしょう。思い直せば「豊さは得るものではなく感じるもの。幸せは買うものではなく創るもの。」そう、成長の限界という壁への激突を避ける唯一の打開策は、外からの資源に頼らない循環型有機農をベースとした自給共生の実践。たとえ完璧に到達できなくても、そこに「くらす幸せ」を見い出して少しずつでも近づくこと。マグマを汲み出すなどして、永遠のエネルギーを手に入れない限り、宇宙に脱出するなりして、無限の空間を我がものにしない限り、私たちは「限界」の範囲内で幸せを紡ぐしかない。そういう思いに至った訳です。

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カテゴリー:オルタナティブ経済論序説 | 投稿者 xbheadjp : 2013年03月05日 08:02